歴史掲示板(渡来人研究会)


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東日本神社・古墳ライン 管理人 投稿日: 2024年05月18日 02:44:11 No.497 【返信】

先日、仮名文字の起源とも言われる日文(阿比留草文字)が残る阿伎留神社や出雲大社、伊勢神宮、鹿島神宮、鶴岡八幡宮等を結んだ方位ラインを作成しましたが、改めて阿伎留神社に注目しながらラインを作成しなおしてみたものが図1となります。図2はその拡大図です。

こうみると土師氏の祖の建夷鳥や加茂氏の祖の味鍬高彦根を祀った阿伎留神社が、意外にも関東の諸社や古墳群を造営した豪族たちにとって重要な中心拠点であったことが伺えます。

まず、以前も指摘した鷺宮神社⇔阿伎留神社⇔長池(山中湖・呉金印出土地)⇔浅間大社⇔比奈多乃神社への東45度偏角のラインがあり、その鷺宮神社と比奈多乃神社でも、土師氏の祖の建夷鳥が祀られていることがありました。

その鷺宮神社については、図のように、芝山古墳群⇔鷺宮神社⇔権現山遺跡への西35度偏角のラインも確認できますが、芝山古墳群ではユダヤ人風の風ぼうの埴輪が発見されたことで最近注目されていることがあります。またその権現山遺跡については、権現山の東側から北側にかけて、6世紀頃の築造と考えられる直径20メートル前後の円墳が30基点在し、古墳群を形成しています。

その権現山⇔阿伎留神社⇔大山阿夫利社⇔秋葉神社(秦野市)⇔羽根尾横穴への南北ラインがありますから、秦野の語源となった秦氏や、同時代(6世紀初頭)の渡来人と予想する横穴墓を造営した九州系集団の影響があったことも伺えるでしょう。

同じく先日指摘した虎塚古墳⇔氷川神社⇔阿伎留神社⇔豊川稲荷への東30度偏角のラインがあり、豊川稲荷も秦氏の松尾大社や伏見稲荷等と関わる稲荷信仰の拠点と考えうることがありました。

同じく阿伎留神社に関するラインとして、多胡碑⇔阿伎留神社⇔寒川神社への西70度偏角のラインがあり、このラインと直交して、芝山古墳群⇔寒川神社⇔豊川稲荷への東20度偏角のラインが確認できます。

この寒川神社については、5世紀後半の雄略朝には存在していたとされ、寒川比古命 (さむかわひこ)、寒川比女命 (さむかわひめ)を祀り、その寒川比古命・寒川比女命は、大水上命の御子とする説があり、また、この二柱は牟弥乃神社(伊勢神宮末社)で祀られています。古代に相模川より東部一帯に勢力を誇った相武国造(さがむのくにのみやつこ)がおり、相武国造の氏神として創祀されたと推定され、近隣に初代相武国造の茅武彦命(かやたけひこのみこと)が埋葬されたと伝わる大神塚古墳(5世紀前半)があります。

また多胡碑については、7世紀初頭の多胡郡の創設にあたっての碑文となりますが、その胡は中国ではソグド人のことであり、シルクロード方面からの渡来人の影響を考慮する必要があることについては、とくに多胡郡の羊大夫の墓から十字架が出土した江戸時代の松浦静山の記録があることにも留意しておくべきでしょう。

そして、そのラインと多胡碑⇔権現山遺跡への東20度偏角のラインとが直交します。

あと阿伎留神社に関するラインとしては、鹿島神宮⇔子ノ神古墳群⇔阿伎留神社への東11度偏角のラインがあり、このラインと平行して、芝山古墳群⇔長池(山中湖)⇔熱田神宮への東11度偏角のライン、同じく平行して莫越山神社⇔比奈多乃神社⇔伊勢外宮⇔日前宮への東11度偏角のラインがあります。

ここで、鹿島神宮、熱田神宮、伊勢神宮、日前宮といった大社が見えてくることがありますが、またその莫越山神社は、忌部氏の祖の手置帆負命を祀るなど、秦氏を祭祀面で統率していた忌部氏の伝承を残している点で重要です。

その莫越山神社⇔芝山古墳群⇔鹿島神宮への東60度偏角のラインについては以前お知らせしましたが、またこのラインと直交して、芝山古墳群⇔子ノ神古墳群⇔奥の山古墳(埼玉古墳群)⇔綿貫観音山古墳への西30度偏角のラインがあることも以前からお知らせしてきたとおりです。

その奥の山古墳⇔吉見百穴⇔阿伎留神社⇔子之神社への東60度偏角のラインも上記2つのラインと平行・直交の関係となるのですが、その子之神社は、先の子ノ神古墳群⇔大山阿夫利社⇔子之神社⇔比奈多乃神社への東35度偏角のライン上にありますから、大国主を祀る子の神信仰を有する集団によってある時期に作られた拠点を考えうるでしょう。実際、上記の阿伎留神社でも大国主と見なされる大物主が祀られており、先日もお話しした出雲国造につながる武蔵国造との関係をこれらの諸社・古墳群を考える上で想定しておくべきでしょう。

あと浅間大社に関しては、浅間大社⇔子ノ神古墳群への東30度偏角のライン、浅間大社⇔羽根尾横穴⇔鶴岡八幡宮への東10度偏角のライン、鶴岡八幡宮⇔氷川神社⇔鷺宮神社への東82度偏角のラインにも留意しておくべきでしょう。

その鶴岡八幡宮については、正確なラインの交点は八幡宮の北の新宮社周辺となりますが、鎌倉時代にこの八幡宮が建てられる以前にこの場所に何らかの拠点があった可能性を感じます。そしてそこに日文が伝わっていたのかもしれません。

以上のように、これらの諸社や古墳を結ぶ方位ラインをみていくと、そこには先日指摘した土師氏の他に、秦氏やその祭祀を司った忌部氏、横穴墓を造った6世紀前半の渡来人の影響が見えてくることがあり、その彼らによって日文がもたらされ、結果としてシルクロードに関わる文化、特にユダヤ商人の影響がもたらされることとなったのではないでしょうか。

その彼らの影響は、日本の神道諸社や文字文化に至るまで、一般的に考えられている以上に大きいものがあり、そのことへの気づきが今問われているように感じます。


弓張月 投稿日: 2024年05月18日 13:23:33 No.498
「宍喰」の由来には、「宍喰(ししくい)は脚咋(あしくい)の転訛とされる。」と
 
なので、「足喰」を検索したら、かしまの伝説「足喰(あしばみ)の池」がありました。
鹿島寺宮には、御手洗池(みたらしいけ)ありましたね。 たらし=足=手洗
https://city.kashima.ibaraki.jp/site/bunkazai/50211.html

宍喰町の金目は「かなめ」でしたね。かなめは要とすると、鹿島神宮の要石 この一致、不思議ですね。
弓張月 投稿日: 2024年05月18日 16:51:16 No.499
かしまの伝説は、「鹿島デジタル博物館」鹿嶋市教育委員会 社会教育課のサイトにあった。
この中に、猿田(さるた・さんだ)の地名由来について興味深いのは、
「さんだ」で、『サンダ』は『寒田』の『む』が『ん』に変わって、『サンタ』が『サンダ』となった。と猿田(サンダ)は、発音通りいけば山田(サンダ)である。と

https://city.kashima.ibaraki.jp/site/bunkazai/73613.html

猿田は、「『寒田の沼』は今の『神の池』(現在の神栖市)であり、その以北を『寒田の里』と呼んだ。寒田の里の北の境界は、『猿田山』

詳しくは、「鹿島デジタル博物館」を見てください。


女化神社(女化稲荷神社) (竜ケ崎市) 青面金剛 投稿日: 2024年05月17日 23:39:12 No.495 【返信】

陰陽師0を観てきました。
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大ヒット上映中!実在した《最強の呪術師》安倍晴明。呪術は、ここから始まる―。原作・夢枕獏 #陰陽師0
wwws.warnerbros.co.jp


安倍晴明の末裔「土御門家」の正体 
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平安時代、陰陽道の国家機関・陰陽寮で天文博士という役についていた安倍晴明。彼の末裔は晴明の邸宅近くにあった土御門大路を由来とする「土御門」を室町時代頃から名乗るようになります。しかし、土御門家の起源となった安倍氏のルーツを紐解いていくと、この「土...
www.youtube.com


[女化神社(女化稲荷神社) (竜ケ崎市)] いばらき探検隊
 https://www.youtube.com/watch?v=J8oso4YzkWk

女化神社(牛久・龍ヶ崎)(1)
 http://mahoranokaze.com/blog-entry-862.html

女化神社(2)-奥の院
 http://mahoranokaze.com/blog-entry-863.html

女化神社 奥の院(おなばけじんじゃ おくのいん)
https://ameblo.jp/mie-omairi/entry-12496871246.html


根本女化稲荷神社〜もうひとつの女化神社|稲敷市
龍ケ崎以外の女化神社を紹介。場所は稲敷市、千葉県の千葉市、富里市、八街市です。
ibamemo.com


キツネの恩返し
https://www.city.ryugasaki.ibaraki.jp/kanko/kankokyokai/more-ryugasaki/mamechisiki/mukashibanashi/2013091900317.html




No.477の続き 弓張月 投稿日: 2024年05月13日 09:46:12 No.478 【返信】

返信は10個までのようで、

兵庫県神戸市東灘区御影郡家は、摂津国の領域なんですね。
弓張月 投稿日: 2024年05月13日 15:16:06 No.479
ウィキペディアに、「頼政は源頼光の系統の摂津源氏で、畿内近国に地盤を持ち中央に進出し、朝廷や摂関家近くで活動する京武士だった。摂津国渡辺(現在の大阪市中央区)を基盤とし、当地の滝口武者の一族である嵯峨源氏の渡辺氏を郎党にして大内守護(皇室警護の近衛兵のようなもの)の任に就いていた。頼光は公家との交流が多いことから著名な歌人でもあり、その子孫たちも和歌をよくした。頼政もまた優れた歌人として後世に知られることになる。」と書かれている。

渡辺と言えば、為替先物の「ミセスワタナベ」ですね。

「頼政は平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。 計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した(以仁王の挙兵)。」 
この辺りの平和への正義感が、為替先物の「ミセスワタナベ」と合致するのでしょうかね。
青面金剛 投稿日: 2024年05月14日 06:14:11 No.481
 ここは、弓張月さんの雑記帳では無いので、古代史、中世史に関係ない話は、控えてください。短時間に連投を重ねるのも、熟考もせずに、思い付きで書き込んでる、と見なされます。

 諏訪大社の元社と論じられてる古社が、阿波徳島に在ります。

多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社:徳島県名西郡石井町浦庄諏訪。

https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/suwasya2/motomiya.htm

https://kohun-jinjya.blog/takeminatomi-jinjya/


 また、忌部神社の本宮は、吉野川市山川町川田忌部山「種穂山」の種穂忌部神社と思われます。

https://itpoint.jp/cultural/page17.html

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阿波富士こと「高越山」♪この右手に延びる支脈が「種穂山(たなぼやま)」です♪吉野川市山川町と美郷の境、「種野峠」から見た「種穂山」です♪「種穂山」の先端は...
sueyasumas.exblog.jp


※ 古代では、北部の吉野川流域を、忌部氏が治める「阿波」国。
南部の那賀川流域を、出雲族が治める「長(なが)」国、と呼ばれていました。

 出雲族が最初に上陸した地は、小松島と伝えられます。東出雲王家のルートとは異なるので、西出雲王家で在る神門臣家が、海路で辿り着いた、のではないかと推察します。

 小松島には、出雲大社の元社と伝わる、『出雲大社』(小松島市日開野町字北開)が鎮座します。

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出雲大社 (徳島県小松島市日開野町 神社 / 神社・寺) - 縁結びの神様の阿波の国出張所のような出雲大社と名乗る神社であるが、基本的に無人の神社で心静かに参拝しました。🙏 小松島の出雲大社とは、島根の出雲大社より分祀されたのなら、出雲神社になりますね、でも...
apese.net


 出雲大社にルーツを持つ祭神「龍蛇神」2体発見 230年前の信仰裏付け 徳島市の四所神社、6月9日一般公開


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四所(ししょ)神社は徳島市の東部、渭東地区にある神社で1200年以上の歴史があります。境内はコンパクトですが、珍しい「洗い狛犬」をはじめ大小の狛犬がたくさんある狛犬パラダイスでもあり、徳島市の保存樹第1号の大きな松の木もあって見どころいっぱいです。
tokushimagoshuin.com


管理人 投稿日: 2024年05月15日 00:09:48 No.485
青面さん、お知らせありがとうございます。
ちょうど明日の歴史講座で出雲の三種の神器の話をする予定でした。
出雲の話、また機会があればお聞かせください。
管理人 投稿日: 2024年05月15日 00:10:56 No.486
清和源氏については、近いうちに再考したいですね。鶴岡八幡宮と石清水八幡宮の謎とともに。
弓張月 投稿日: 2024年05月15日 10:03:48 No.489
徳島県の地名「諏訪」以外にも面白そうな地名ありますね。

その地名は、徳島県海部郡海陽町宍喰浦で、元は海部郡宍喰町 
ウィキペディアには、「宍喰」の由来
宍喰(ししくい)は脚咋(あしくい)の転訛とされる。脚咋は「葦(イネ化の植物)をつくって主食とした住民」。履中天皇の時代に大和朝廷から鷲住王(わしずみおう)がこの地に遣わされ、宍喰川下流の平野部を利用した農耕が近隣地域に先立って発達した事による。時代とともに狩猟に纏わる宍(カン、しし、にく)が使われるようになり、鎌倉時代以降は宍喰と呼ばれるようになった。と

この宍喰町宍喰浦は昔「金目(かねめ)」だった。
デジタル大辞泉 - 金目の用語解説 - 1 金銭的価値の高いこと。高価。「金目の品」2 金銭に換算した価値。値段。「―に積もらば拾七八貫目が物あり」〈浮・万金丹・五〉
kotobank.jp


宍(しし)・獅子は、「ひ」から「し」のヒヒ(狒狒), 六は陸

であると金目(かねめ)の読みを「かなめ」に代えると要となり、鹿島神宮の要石を連想します?
弓張月 投稿日: 2024年05月15日 10:17:01 No.490
鹿嶋市は中臣鎌足の発祥地?であるので、那珂市豊喰の神社も載せておきます。

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茨城県那珂市にある鹿嶋三嶋神社の兼務社、西木ノ倉の諏訪神社と天満神社(豊喰)を紹介しています。由緒、ご祭神、アクセス、御朱印など。
ibamemo.com
弓張月 投稿日: 2024年05月16日 13:38:05 No.492
金目(カネメ)とは? 意味や使い方 - コトバンクで、

「古目こめの南にあり、南東に竹たけヶ島が浮ぶ。」と書かれている。

「古目」を検索すると、名字「古目谷(こめや)」があり、「茨城県常陸太田市。小目谷の異形。茨城県常陸太田市大里町が本拠。」と書かれている。大里町には来迎院と大里長者伝説がある。良くも繋がること。
それと、「こ」は「古」と「小」で上手に使い分けしているのでしょうね?

古目谷: 茨城県常陸太田市。小目谷の異形。茨城県常陸太田市大里町が本拠。…
name-power.net
弓張月 投稿日: 2024年05月17日 07:14:15 No.493
私の先祖調べはほぼ終了しました。今後の投稿は、皆さんの好奇心に役立てば程度の投稿をします。

宍喰(ししくい)は脚咋(あしくい)の転訛とされる。脚咋は「葦(イネ化の植物)をつくって主食とした住民」。で、

前に投稿した、新治郡が二つあること、筑西市にある推定長141メートルの前方後円墳:葦間山古墳の葦で、金砂神社の大・小祭礼のルートで、水府村和田と常陸太田市下大門町の間に、金砂町芦間町(芦間祭場)を通る。
葦と芦の違い「 芦」は穂が完全に出ていない状態の「あし」、「葦」は穂が出た状態の「あし」だそうです。
また、「あし」は、足で大足彦、「よし」は、吉,善で、深く考えると四氏、四子の宍・獅子になりますね。
この辺りが開ければ、古代史もスッキリしますか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/新治郡_(常陸国)
https://ja.wikipedia.org/wiki/新治国造
https://ja.wikipedia.org/wiki/新治郡
http://hyotanhitachi.web.fc2.com/00jphyotan/05j_traditional/0501j_events/1504j_shosairei/j_shosairei.html
弓張月 投稿日: 2024年05月17日 07:52:39 No.494
前の投稿の忘れ物です。忘れ物多くてすいませーん。

古河市の隣に猿島郡に属していた村「新郷村」もありました。 大字に「鳥喰(とりはみ)」等もあり考えての地名でしょう。(他の大字はウィキペディアで)

https://ja.wikipedia.org/wiki/新郷村_(茨城県)


新・全国神社方位ライン 管理人 投稿日: 2024年05月15日 02:49:51 No.487 【返信】

先日、伊勢神宮や鹿島神宮、出雲大社などを含んだ拠点を結ぶラインをいくらか作成・紹介しましたが、特に諏訪大社(その南西の守屋山)に注目しながら、改めて全国の主要な神社を結ぶ方位ラインについて考えてみました。図1がその方位ラインで、図2,3は拡大図です。

その諏訪大社前宮の南西にある守屋山(諏訪大社の元宮)を通過するラインについてみていくと、まず鹿島神宮⇔守屋山⇔白山中居社への東西ラインがあり、特に守屋山⇔鹿島神宮が35度57分55秒で同緯度となります。

すでに、百瀬直也さんなどにより、鹿島神宮と諏訪大社が東西ラインにあることは指摘されていますが、正確な意味では、この守屋山が同緯度でかつ主要な拠点だったことが伺えます。

白山中居社についてはやや北方にあり、35度59分16秒の諏訪大社前宮と4秒差で同緯度となるので、この前者は後者を起点として測量されたライン、つまり上記の守屋山のラインより後代のものと考えるのが妥当でしょう。

その守屋山に関するラインとしては、次に守屋山⇔冠島(伊勢外宮の元宮籠神社の奥宮)⇔弥栄(京丹後市:魏年号銘鏡出土地)⇔出雲大社への東8度偏角のラインがあり、また浅間山古墳⇔守屋山⇔藤越神社(月読橋)⇔宇佐神宮への東25度偏角のライン、守屋山⇔伊弉諾神宮北部⇔天岩戸神社への東30度偏角のライン、守屋山⇔石上神宮⇔日前宮⇔宮崎神宮への東40度偏角のラインが見出しうるでしょう。最後のラインにみえる石上神宮は物部氏の本拠であり、諏訪大社が物部守屋など物部氏と関わりがあることにも対応してきます。

そして、守屋山西部⇔比奈多乃神社南北ラインがありますが、若干東に偏角があり、それぞれ造営された年代差がそれらの拠点にあるのかもしれません。

おそらく諏訪大社、とくに守屋山と同年代も構築という面では、やはり鹿島神宮の存在があったはずで、その鹿島神宮を起点としたラインに注目してみると、まず鹿島神宮⇔気比神宮南部⇔籠神社⇔出雲大社への東5度偏角のラインがあることは以前もお知らせしたとおりです。

次に鹿島神宮⇔成務陵・日葉酢姫陵⇔伊弉諾神宮⇔宇佐神宮への東20度偏角のラインがあり、また鹿島神宮⇔熊野大社⇔宮崎神宮への東28度偏角のラインも確認できます。

そして、比奈多乃神社⇔鹿島神宮の東30度偏角のラインも意図的な測量による位置付けと考えうるでしょうから、比奈多乃神社が鹿島神宮を起点として後代に位置づけられたことが予想できます。

あと、鹿島神宮⇔浅間大社南部⇔伊勢内宮⇔山田(西都市の古墳状地形)への東25度偏角のラインもあり、その山田(西都市)⇔天岩戸神社⇔宇佐神宮への南北ラインがあることは以前もお知らせしたとおりですが、これはかなり古い時代の天岩戸・アマテラス信仰に関するラインと言えるでしょう。

それとは対照的に伊勢外宮(トヨウケ神)に関するラインについては、先日の分析でも見てきたように、比奈多乃神社⇔伊勢外宮⇔日前宮⇔忌部神社⇔宇佐神宮への東12度偏角のラインがあり、これは邪馬台国時代というよりは、それより新しい年代の忌部・秦氏・河内王朝時代のラインと考えるべきでしょう。

同じく、伊勢外宮⇔春日大社⇔成務・日葉酢姫陵⇔出雲大社への西15度偏角のラインも同時代と考えるべきで、伊勢外宮⇔白山中居社への南北ラインも同時代と考えるべきかもしれません。

そこで、続いて出雲大社に関するラインを考えてみると、図のように、出雲大社(35度23分56秒)⇔富士山(剣ヶ峰:35度21分25秒)への東西ラインがありますが、出雲大社の位置自体は、その南東の加茂岩倉遺跡の(35度21分24秒)と上記の富士山(剣ヶ峰)が同緯度であることから派生した位置付けと考えうるでしょう。後者が弥生前期の銅鐸時代の測量で、後者は弥生時代よりずっと後代に測量しなおした際のものと考えるべきです。

次に出雲大社⇔備前国分寺⇔熊野大社への西30度偏角のラインのラインがあり、熊野大社も出雲大社と年代的には近い構築と考えるべきかもしれません。

その熊野大社の真北に、先の成務陵・日葉酢姫陵があることにも留意しておくべきでしょう。

そして最後に先ほどから西の拠点としてみえてくる宇佐神宮に注目してみると、まず宇佐神宮⇔出雲大社は東60度偏角となり、この両者が意図的な測量によって位置付けられたことが明らかになります。

同じく宇佐神宮⇔吉備津神社⇔吉備津彦神社⇔備前国分寺⇔気比神宮⇔白山中居社⇔川柳将軍塚古墳⇔墨坂神社への東30度偏角のラインも意図的なラインと言えるでしょう。年代的にも前述のとおり整合性があります。

その墨坂神社については、図のように、墨坂神社⇔綿貫観音山古墳⇔奥の山古墳(埼玉古墳群)⇔子ノ神古墳群⇔芝山古墳群への西30度偏角のラインがあり、年代的には6世紀代と考えるのが妥当でしょう。その墨坂神社には神武東征に関わる伝承があります。

その奥の山古墳は先の諏訪大社⇔出雲大社ラインの延長線上にあり、この古墳が埼玉古墳群にあること、この古墳群が笠原直の6世紀前半のもので、その武蔵国造が出雲国造系の天穂日・建夷鳥の子孫となることはこの出雲から伸びるラインと関係してくるはずです。

そして、芝山古墳群が図のように、先の冠島(元伊勢籠神社の奥宮)と同緯度にあることは先日も述べたとおりで、冠島を起点として、伊勢外宮および内宮が最終的に位置づけられていったこともありました。

同じく、先日の分析では、天穂日・建夷鳥を祀る比奈多乃神社⇔長池(山中湖:呉金印出土地)⇔阿伎留神社⇔鷺宮神社への東45度偏角のラインがありましたが、比奈多乃神社⇔綿貫観音山古墳への東60度偏角のラインと、先の綿貫観音山古墳⇔芝山古墳群への西30度偏角のラインとが直交します。

その比奈多乃神社⇔熱田神宮⇔冠島への西25度偏角のラインもあり、ここで三種の神器・草薙剣の伝承が残る熱田神宮が見えてくるのですが、これらも元伊勢・出雲系の集団と関わっていた可能性がありそうです。

あと、比奈多乃神社⇔成務・日葉酢姫陵⇔吉備津神社の東西ラインがあり、若干の西偏角をもっているのですが、日葉酢姫の伝承に土師氏の祖の野見宿祢が殉死を禁止して埴輪を代わりに立てる案を出した話があることも、先のライン拠点にみえた天穂日と建夷鳥親子も同じ土師氏の祖とされていることと関係してくるでしょう。

その他、伊勢内宮⇔伊弉諾神宮への東西同緯度ライン、同じく伊勢内宮⇔富士山(剣ヶ峰)⇔長池(山中湖:呉金印出土地)⇔阿弥神社への東30度偏角のラインもありますが、このラインの延長線が熊野大社⇔山田(西都市)古墳状地形(箸墓規格)のラインであり、年代的にはかなり古い邪馬台国時代に遡るラインではないかと感じます。

このラインと当時、平行の位置に造営されたのが、図のように、川柳将軍塚⇔中山茶臼山古墳⇔宇佐赤塚古墳⇔女山神籠石への東30度偏角のラインであり、年代的には箸墓に近い規格の古墳の年代とかんがえるべきでしょう。

そして、先の山田(西都市)古墳状地形⇔女山神籠石⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)⇔平原遺跡への西60度偏角のラインと、平原遺跡⇔宇佐赤塚古墳(川部・高森古墳群)への東西同緯度ライン、宇佐赤塚古墳(川部・高森古墳群)⇔天岩戸神社東部⇔山田(西都市)古墳状地形への南北ラインがあることは以前もお知らせしたとおりですが、これらのライン上に伊勢内宮が位置づけられている点に注目すべきで、そこにアマテラス信仰が伊勢内宮のそれとともに関係づけられていた可能性があります。

このように、弥生時代や古墳時代初期の遺跡・古墳を結ぶラインが先にあり、このラインを流用するかのように、古墳時代後期の秦氏や河内王朝・継体王朝に関わるラインとが接合して見えてくることも構造理解として重要です。

結果として、日本の主要の大社については、これらの方位ライン上に位置付けられていたことが明らかになりますが、そこには、後に同族関係を確認したであろう新旧二つの集団があったことを想定しておく必要がありそうです。


弓張月 投稿日: 2024年05月15日 07:33:56 No.488
「結果として、日本の主要の大社については、これらの方位ライン上に位置付けられていたことが明らかになりますが、そこには、後に同族関係を確認したであろう新旧二つの集団があったことを想定しておく必要がありそうです。」ですが、

常陸太田市大里町にある来迎院(久米町の隣)ですが、
寺伝によると初めは真言宗に属したが、後に改めたという。
天和3年/1683年 磯原村(現在の大洗町磯原町)にあった普賢院(天台宗)が現在に移される。元禄5年/1692年 普賢院から阿弥陀院に改号 天保14年/1843年 水戸藩の寺社政策により廃寺処分となる。
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茨城県常陸太田市の来迎院をブログにしました。由緒、御本尊、アクセス、御朱印など。
ibamemo.com


「後に同族関係を確認したであろう新旧二つの集団」とは、那珂川沿いにある大洗町の磯浜古墳群と水戸市の愛宕古墳でしょうか?

来迎院の「来(らい)」を雷と考えると雷迎院で、迎(こう)は「げい(鯨)」とすると雷鯨院となります。
弓張月 投稿日: 2024年05月16日 06:51:11 No.491
前後関係で、もう一つ

常陸太田市大里町にある来迎院の元の普賢院(天台宗)と磯浜古墳群かある大洗町磯原町の内側に、「大洗町五反田」が、虎塚古墳があるひたちなか市中根の隣には「ひたちなか市三反田(大字)」があります。虎は獅子(宍)ですよね。
徳島県の宍喰町にも「三反田」なる地名が。愛宕城り近く 


無題 弓張月 投稿日: 2024年05月14日 06:59:08 No.482 【返信】

おはようございます。

みなさん、『常陸国風土記』に書かれている「夜刀神は蛇体で頭に角を有つといい」について、以下の資料から楽しんでください。(私の考察はずっと後程に、ちょっと一休み)

茨城県行方市玉造甲にある愛宕神社
https://ja.wikipedia.org/wiki/愛宕神社_(行方市玉造甲)

茨城県常陸太田市玉造にある愛宕神社
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茨城県常陸太田市の玉造に鎮座する愛宕神社を紹介しています。由緒、祭神、アクセス、御朱印など。
ibamemo.com

『茨城県神社誌』の由緒に記載されていませんが、遷座前は市内の久米町にある常光院の境内にあったと伝えられます。

茨城県常陸太田市久米町にある 常光院(曹洞宗)
https://kume-jyoukouin.jimdofree.com/
永享十二年(一四四〇)佐竹十三代義人公が建立その後、十六代義舜公(晴峰院殿還慶本公大禅定門)が大伽藍を再建、成高寺(宇都宮)より要山玄的禅師を請して開山となる。佐竹義治公の子義信をはじめ佐竹北家の墳墓六基今、尚現存す。

行方市にある常光院(曹洞宗)
行方市の曹洞宗の寺院『常光院』をご紹介しています。由緒、アクセス、御朱印など。
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開基は宇都宮市成髙寺から請した要山玄的大和尚禅師、開基は佐竹義舜

曹洞宗は五七桐紋。
鹿島神宮の要石の「鯰」は、
久米氏の氏寺、久米寺に鯰(なまず)の奉納額がみられ、古く、久米氏族が鯰をトーテムにしていたといわれます。
http://aburabaku.blog.jp/archives/65235864.html

金砂大祭例で、大郷町と久米町・玉造町を通るのは、東金砂神社の神輿のみ
佐竹十三代義人公は、上杉氏からの婿養子で、青龍城内に氏神の若宮を祀る。
この後、山入氏との内輪もめ勃発。

茨城県笠間市泉の愛宕山に鎮座する愛宕神社は、筑波山・三枝神社・宍戸の領域内
https://ja.wikipedia.org/wiki/愛宕神社_(笠間市)

常陸太田市玉造町で、常陸大宮市で採れた瑪瑙石の加工をしていたようです。八尺瓊勾玉は、瑪瑙石でしたね。

みなさなん、楽しんでください。
弓張月 投稿日: 2024年05月14日 08:00:39 No.483
それと、常陸太田市市街の鯨が丘の東なのに西宮町にある西宮神社の宮司は、久米さんです。

常陸太田市の西宮神社をご紹介しています。由緒、アクセス、御朱印など。
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弓張月 投稿日: 2024年05月14日 08:57:48 No.484
愛宕と言えば、国道123号線沿いの水戸八幡宮の隣に愛宕古墳がありますね。国道123号線をもう少し進むと渡里町です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/愛宕山古墳_(水戸市)


メキシコのピラミット 弓張月 投稿日: 2024年05月10日 06:37:57 No.465 【返信】

マヤの遺跡の「カスティーヨ、またはククルカンの神殿」は、

ウィキペディアに、「大きな9段の階層からなり、4面に各91段の急な階段が配されていて、最上段には真四角な神殿がある。ピラミッドの階段は、4面の91段を合計すると364段で、最上段の神殿の1段を足すと、ちょうど365段である。また1面の階層9段は階段で分断されているので合計18段となり、これらはマヤ暦の1年(18か月5日)を表す。このことから「暦のピラミッド」とも呼ばれる。北面の階段の最下段にククルカンの頭部の彫刻があり、春分の日・秋分の日に太陽が沈む時、ピラミッドは真西から照らされ階段の西側にククルカンの胴体(蛇が身をくねらせた姿)が現れ、ククルカンの降臨と呼ばれている。」と

倭の五王と〇(360度)を足すと365(日)和紙(わかみ=倭神)の原料にクワ科コウゾ属の梶の木がある。御柱祭の諏訪大社の神門ですね。
常陸風土記には、常陸の国は、元は日高見国(ひだかみ=ヒダ神)と書かれている。
そして、常陸は神宍(獅子)と考察しています。

となると、4+1=5  太陽と金星(ビーナス)の公転周期(円回転=360度)から、「金星が黄道上に8年周期で黄道上に五芒星を描く」
 
出展:Project Metatron http://metatron.la.coocan.jp/zone-01a/B011.htm 金星と地球は姉妹星 金星は地球のすぐ内側を回る惑星で、地球に最も近づく惑星でもあります。直径は地球の0.95倍、重さは地球の0.82倍と、大きさ・重さとも、地球とよく似ています。その内部...
heliot.hatenablog.jp


また、何度も投稿しましたが、観音菩薩は、=神子の菩薩では?と考えました。

「ククルカンの神殿」と同じように考えると、〇は梶の木で、和紙(わかみ)四神と観音菩薩からなりますかね?観音菩薩は、縄文のビーナスのことでしょうけど?
弓張月 投稿日: 2024年05月10日 07:15:26 No.466
金星(ビーナス) 縄文のビーナス  なぜか、ビーナス? 
弓張月 投稿日: 2024年05月10日 07:23:41 No.467
おまけ、

大阪市天王寺区四天王寺にある和宗の総本山の寺院の四天王寺には、
大阪の四天王寺に四箇院の一つとして
聖徳太子が隋にならい、四箇院の一つとして建てられた悲田院(ひでんいん)は、仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた施設。ですが、

悲田院の「悲田」は、これ「ヒダ」の読みもあります。
弓張月 投稿日: 2024年05月11日 09:47:15 No.468
「北面の階段の最下段にククルカンの頭部の彫刻があり、春分の日・秋分の日に太陽が沈む時、ピラミッドは真西から照らされ階段の西側にククルカンの胴体(蛇が身をくねらせた姿)が現れ、ククルカンの降臨と呼ばれている。」ですが、

太陽は南半球でなければ北側から光ることは無い。真西からの光で北側の階段を使って、ククルカンの降臨としたのは、私には分かりませんが訳アリなのでしょうね?
また、春分の日から秋分の日と秋分の日から春分の日の真西から照らされる光は、蛇の尻尾の上段から北面の階段を左右に分かれで下段へとなるのでしょうか?
ヒフティー・ヒフティーですね。玄武の亀蛇〔きた・北(五画)〕や蛇塚古墳の真北には真弓八幡宮もあり、意味ありなのでしょうか?
弓張月 投稿日: 2024年05月12日 08:24:51 No.469
諏訪大社の神紋は上社が四根の梶、下社は五根の梶なんですね。

名字も沢山区分されていて、日本人らしいです。

オリンピックで言うと、「上社が四根」は閏年で、「下社は五根」は五輪マークになるのかな?
弓張月 投稿日: 2024年05月12日 14:44:00 No.470
前にも投稿しましたが、オリンピックは、夏冬一緒だった1992年アルベールビルオリンピックを最後に、その後は夏冬別々になり、2年後1994年リレハンメルオリンピックが行われ、初めての4年周期の冬季オリンピックが1998年長野で行われた。
開会式は、善光寺の鐘の音を合図にスタートした。
また、開会式のクライマックスは、長野県県民文化会館でのオーケストラとソリストに開会式会場と世界5大陸(北京、ベルリン、ケープタウン、ニューヨーク・シドニー)の合唱団が加わった衛星同時中継によるベートーベン作曲の交響曲第9番「合唱付き」第4楽章の演奏・合唱であった。指揮は小澤征爾が行い、この合唱は会場の観客や選手を含む全員が参加し行われるというオリンピック史上初の試みであった。

憲法九条は平和憲法で、応神天皇を一世とすると聖徳太子は九世です。
パワースポットの皆神山は、北緯36度33分14秒 拝殿の入口の屋根下に亀蛇(きた・北)のある馬場八幡宮本殿は36度33分13.78秒 です。
皆神山山頂には熊野出速雄神社(皆神神社)があり、ご祭神は出早雄命(いずはやおのみこと、歴史的仮名遣:いづはやをのみこと)。諏訪地方では建御名方神(諏訪大社の祭神)の御子神とされている。

馬場八幡宮は、前九年の役のとき、源頼義、東征の際に熊野社の境内に軍陣をはり、社前に大石を二石置き、石清水八幡大神を祀り戦勝を祈願した。 熊野繋がりですね。あら不思議

画像
茨城県常陸太田市の馬場八幡宮を紹介しています。由緒、御祭神、アクセス、御朱印など。
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弓張月 投稿日: 2024年05月12日 15:26:57 No.473
馬場八幡宮の御神木 柊(ひいらぎ)→ これも不思議

前九年の役のとき「社前に大石を二石」の場所にある柊(ご神木)

柊は、「ホツマツタエ」に、
門(角・才)を開くもの。 カドは「繁栄・幸運」の意。
繁栄・幸運を開くことの物実として、大晦日に門戸を開き、柊を据えて幸運を開く。
(同時に煎豆を打って穢・鬼を遣らう。)   → 節分

「ホツマツタエ」とは、「ヲシテ」なる「文字」(いわゆる「神代文字」の一つである)を使っているいわゆる「ヲシテ文献」のひとつ。

ただし、「ホツマツタエ」は偽書扱い
弓張月 投稿日: 2024年05月12日 15:30:53 No.474
画像:馬場八幡宮の御神木  前投稿の写真

弓張月 投稿日: 2024年05月13日 06:51:13 No.475
国会議事堂は「九階建て」で
ね。九階は八階から螺旋階段になっているようです。八階は立ち入り禁止でしたね。九は「きゅう」で、=球・弓・宮・狗・久などよく考えてますかね? また、「きゅう」は、360度を連想しますね。
となると、十は「と」で、頭・渡・菟・土・斗・杜・登・賭(長と伴)など歴史的に合う言葉にしたのかな? (鹿島神宮・祭頭祭の意味、私には分かりません。)
 
弓張月 投稿日: 2024年05月13日 07:10:22 No.476
鹿島神宮・祭頭祭は、頼政神社がある茨城県古河市の「古河提灯竿もみまつり」から考えるとガッテンなのでしょうか?(賭の長と伴の関係が祭頭祭と提灯竿もみまつりのように感じますね)
古河の読みも考えられていて、「ふるかわ=古川」でなく、「こが(≒子川)」かな?

Bing のインテリジェント検索機能により、探しているものをより簡単にすばやく見つけられるようになり、リワードも得られます。
www.bing.com


茨城県の古河提灯竿もみまつり2023について、開催日程・時間(スケジュール)や場所、見どころ、アクセスや駐車場等気になりますよね。ここでは、古河提灯竿もみまつり2023の日程・時間(スケジュール)や場所、歴史や見どころ、アクセスや駐車場を紹介します。
forestpost-jp.com
弓張月 投稿日: 2024年05月13日 09:36:13 No.477
ウィキペディアの「頼政神社」には、
「同様に、頼政の首を葬ったとする伝承は、茨城県龍ケ崎市の頼政神社にもある。伝承の正確さは良く分からないが、かつての古河は下河辺氏の拠点であり、下河辺氏は源頼政の郎党であった。龍ケ崎地方の在地領主であった龍崎氏も下河辺氏の流れであった。」とある。

竜ケ崎市観光物産協会のWebには、「政宗は、慶長11年(1606年)に徳川家康から常陸河内郡と信太郡26カ村(1万石余り)を与えられています。現在の龍ケ崎市域の一部は仙台藩領でした。政宗は、龍ケ崎村に陣屋を構えて代官を置き、常陸国における仙台領支配の中心地としたため龍ケ崎は繁栄しました。」と
https://www.city.ryugasaki.ibaraki.jp/kanko/kankokyokai/more-ryugasaki/mamechisiki/2013091801270.html

これってもしかすると、水戸市渡里と宮城県亘理郡の関係? 水戸市渡里は国道123(≒ひふみ)号線が通っています。


続いて、真弓八幡宮はご祭神:応神天皇のみのようですね。それと、兵庫県神戸市東灘区御影郡家の弓弦羽神社のご祭神で、ウィキに、「熊野三山に祀られる神である伊弉冉尊(那智大社)・事解之男命(本宮大社)・速玉之男命(速玉大社)を祀り、「根本熊野三所大神」と総称する。天照皇大御神・素佐男尊を配祀する。八咫烏をシンボルとする。」と

弓八(ゆみや)と弓弦(ゆみづる)で、「や」と「つる」の違いを表しているのかな?


秦氏・今来漢人・欽明・推古陵と伊勢・豊受神 管理人 投稿日: 2024年05月04日 02:48:15 No.455 【返信】

先日、松尾大社などの秦氏の拠点と伊勢外宮およびその豊受神を祀る拠点を結んだ方位ラインについてお知らせしましたが、また松尾大社に関しては図1のようなラインの存在も明らかになりましたので、お知らせします。

以前、元伊勢外宮・内宮の移動拠点を結ぶラインを作成した際に、その起点として位置づけられていた冠島(元伊勢・籠神社の奥宮)がありましたが、この冠島に注目すると、まず冠島⇔松尾大社⇔西山塚古墳⇔穴師兵主神社への西72度偏角のラインがあることがわかります。

この西山塚古墳は、3世紀後半と推定される西殿塚古墳(手白香皇女陵)のそばにあり、継体天皇皇后の手白香皇女の真陵と見なされていることがあります。

この手白香皇女については継体天皇の后であるとともに、欽明天皇の母でもあり、さらに母が春日大娘皇女(雄略天皇皇女)とされることがあり、この点が、今回のライン面でもきれいに見えています。

すなわち、西山塚古墳の真北に春日大社があり、その延長線上に先日の宇佐八幡宮(大津市)が位置しますが、この春日大社が、その母・春日大娘皇女を想起させます。

また、西山塚古墳⇔欽明陵への東70度偏角のラインと直交するのが、図のように、推古陵⇔倭彦命陵⇔欽明陵⇔飛鳥稲淵宮への西20度偏角のラインとなります。

この倭彦命墓は巨大方墳であるとともに、そばにある新塚千塚の方墳群(今来漢人等の墓)の主の墓と見なすのが自然ですが、この陵墓については下記の興味深い話があります。

すなわち、『日本書紀』によれば、垂仁天皇28年10月5日に倭彦命は薨去し、11月2日に「身狭桃花鳥坂(むさのつきさか)」に葬られた。その際、近習は墓の周辺に生き埋めにされたが(日本書紀に記される初にして唯一の殉葬の記録である)、数日間も死なずに昼夜呻き続けたうえ、その死後には犬や鳥が腐肉を漁った。これを哀れんだ天皇は殉死の禁令を出したという。

また同書垂仁天皇32年7月6日条では、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が薨去した際、野見宿禰が人・馬などの土物(はにもの)を墓に立てて代替とすることを進言し、天皇は大いによろこび、以後これが慣例になったとする(人物埴輪・形象埴輪の起源譚)。この起源譚は、垂仁28年条の記事が前提になる。

『古事記』では、倭日子命(倭彦命)の分注として、倭日子命の時に初めて「陵に人垣を立てた(殉葬した)」としている。

すなわち、6世紀前半に渡来した今来漢人の主であろう倭彦命の墓造営から、殉死に変えて人形埴輪が造営され始めたことが伺えるのであり、そこに先日注目した土師氏とその祖・野見宿禰の話とがリンクしてくるのです。

この 野見宿禰は、このライン上にみえる穴師兵主神社のそばにある相撲神社にも関連していいます。

そして、このライン上の推古天皇陵がライン面で欽明天皇陵と接合してくる点について考える必要がありますが、推古天皇は欽明天皇の娘ですから、親子でこのライン上に見えるのは自然なことと考えうるでしょう。

この推古陵については、先の冠島⇔藤越神社⇔高井田横穴⇔推古陵への西80度偏角のラインの存在もあり、その高井戸横穴の真東が先の西山塚古墳となります。

その藤越神社については、野椎命(鹿屋野比女)を祀りますが、イザナギの子で、薩摩の阿多群におり、日向から伊勢へ向かい、淡海国の日枝山に向かう際に、山野の物・甘菜辛菜に至るまで霊感を示したとの話が社伝としてあリます。(http://www.norichan.jp/jinja/renai2/fujikoshi.htm)参照。

その神社の東に月読橋があり、この伝承が先日お話した月読(ツキヨミ)神やオオゲツヒメなどの保食(女)神、特にトヨウケ等のウケモチ神信仰とに関係していたことも考えうるでしょう。

そのラインの北端の冠島は、先のとおり元伊勢・籠神社の奥宮で、その籠神社では伊勢外宮で後に祀られたトヨウケ神が、雄略天皇の時代に移された経緯がありますので、ここでも先の手白香皇女墓が雄略の娘であることを想起させます。

そしてこのライン上の南端に女帝・推古天皇の陵墓が出てくるのも、トヨウケ女神と、推古=豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)との関係性をうかがわせるものです。

彼女の名前には、豊(トヨ)の称号とともに、ツキヨミ・トヨウケに関する保食を意味する食炊が見えてくることにも注目すべきでしょう。

先日お話した秦氏の氏社・松尾大社について、古事記の大年神の系譜を示した条文によれば、淡海の日枝(山)にいる鳴鏑を持つ神として松尾大社の神を記していることがあり、この鹿屋野比女が伊勢・淡海を経由してこの地に坐したこととも関係してくるはずで、さらにその大年神の子孫としてオオゲツヒメが出てくることもやはり必然の結果と言えるでしょう。

そして、今回のライン上に先の松尾大社が見えてくるわけです。

あと、このライン上にみえる高井戸横穴については、九州に6世紀初頭から現れはじめる横穴墓をもたらした集団の子孫による造営を考えるべきで、具体的には筑紫君磐井がその乱によって滅ぼされた際に、その配下にいた渡来系集団が、九州南部から近江、東海、関東、東北方面へと移動していった流れの中で横穴墓が造営されており、その拠点の一つと考えるべきです。

その集団はオオ氏とも言われますが、おそらくは年代的にみても上記の今来漢人の子孫であり、横穴墓に壁画を残していますが、特に高井戸横穴の壁画に関しては、線刻が主体で船を描いており、同様な線刻主体の横穴墓としては、九州北東部の玖珠の鬼ヶ城古墳があり、ここにも船などの線刻が描かれ、豊前秦氏との関連が指摘されているところです。

そしてこの横穴の真東に先の西山塚古墳があり、継体妃の墓と想定されていますが、継体天皇が富山から近江を経て畿内へと進出していく過程で、当時渡来してきたその今来漢人等の力があったろうことも以前お話したとおりです。

その同時代に秦氏も勢力を伸ばしていくのですが、その秦氏の祖の秦大津父が欽明天皇の即位前記に伊勢の商いの話とともに見えてくるように、欽明の擁立に秦氏の力があったことも想定しておくべきでしょう。

なお、先日のライン(図3)では、秦河勝を祀る大避神社を起点として、特に大避神社⇔服部(斑鳩町)⇔額安寺⇔伊勢外宮へのラインを明らかにしましたが、このライン上にみえる額安寺は額田部氏の氏寺であるとともに、推古朝に聖徳太子が額田部の地に建てた熊凝精舎とも言われており、額田部が推古天皇の名代とみられることも考慮すれば、図3のラインと今回の図2のラインが接合しており、そこに推古陵が見えてくることも必然の結果であったと考えるべきでしょう。

ともあれ、先日お話ししたトヨウケ信仰と推古女帝との関係が今回浮かび上がってきたことは興味深く、この点については、また後日改めて考察してみたいと思います。


弓張月 投稿日: 2024年05月04日 07:16:01 No.456
大津市に「宇佐八幡宮」があるんですね。歴史を書き物では無く、レイラインで残したならガッテンです。
園城寺と京都の蛇塚古墳は東西ライン上です。何度も投稿していますが、石清水八幡宮、蛇塚古墳と真弓八幡宮(京都市北区真弓八幡町)は南北ライン上です。
北区の北(きた)は、=亀蛇(玄武)で、南北ラインは矢、東西ラインは弓(上弦月と下弦月)となり、
宮城県仙台市宮城野区岩切にある青麻神社(あおそじんじゃ)の天之御中主神・天照大御神・月読神を主祭神とし、常陸坊海尊を併祀する。主祭神三神はそれぞれ星神・日神・月神。旧称を青麻岩戸三光宮、青麻権現社、嵯峨神社などといい、日本各地にある青麻神社・三光神社の総本社と同じ揃い組。
なので、蛇塚古墳は「墳丘封土は失われ、現在は露出した石室のみが残る。」となり、ウィキペディアに、真弓八幡宮,宇佐八幡宮,馬場八幡宮は書き込みなしで、八幡宮の総本社は宇佐神宮(大分県)で、八幡の文字が無い訳かな。そして、大分県の大分は、「王を分ける」の意味か?
管理人 投稿日: 2024年05月04日 17:01:23 No.459
ご指摘のラインを確認してみましたが、おっしゃるとおり、真弓八幡宮⇔蛇塚古墳⇔石清水八幡宮への南北ラインは精度の高いラインとみてよいでしょう。添付の図をご参照ください。

同じく、ご指摘の蛇塚古墳⇔園城寺の東西ラインについては、園城寺のうち三井寺のやや南の法泉院あたりが正確な位置となりそうです。

加えて、延暦寺⇔園城寺⇔春日大社の南北ラインがあることもわかります。

さらに、石清水八幡宮⇔延暦寺への東60度偏角のラインと、石清水八幡宮⇔春日大社への西60度偏角のラインとが線対称となっており、同距離です。

石清水八幡宮には三女神社があり、先の園城寺の三井寺同様、三がつく点で秦氏の三に関する神観念と関係しそうですが、その辺については、また後日改めて検討させていただきますね。


弓張月 投稿日: 2024年05月04日 18:40:01 No.460
前に投稿してますが、真弓八幡宮が特別なのは貴船神社、熱田神宮、高尾山古墳(沼津市)、三嶋大社が東西ライン上である。三嶋大社の「山」と高尾塚でなく高尾山なのが興味深いですね。
弓張月 投稿日: 2024年05月08日 19:20:44 No.464
「真弓八幡宮が特別なのは貴船神社、熱田神宮、高尾山古墳(沼津市)、三嶋大社が東西ライン上」で、
もう少し東に伸ばすと、静岡県熱海市伊豆山にある伊豆山神社もライン上ですね。また、来宮神社(静岡県熱海市)の主祭神3柱を伊豆山神社の地主神としてて、その中に五十猛命もおりますね。伊豆山神社のご祭神の中に、拷幡千千姫尊が、貴船神社の主祭神は高龗神です。これって、古代史上の氏族がみんなこの東西ラインに神社を創建したかったのですか?


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